(Q)教会は、なぜ毎週礼拝があるんですか。
また信者さんたちも、熱心によく行かれますね。
(Q)私たちがもっとも神さまの愛と導きを感じることができるには、
どうすればいいですか。
(Q)具体的には、どうすればいいのですか。
(Q)洗礼を受けるまでには、どのくらいの準備や時間がかかりますか。
(Q)受けたくても、洗礼が受けられない、
たとえば猛烈な家族の反対があるとか、そういう方もおられるのではないですか。
(Q)そうすると、宗教のグループ分けには、こだわらないということになりますか。
またそうすると、何が大切な教えになりますか。
(Q)最後に、具体的な話ですが、
教会員になると、何かおつとめがあるのではないですか。
(Q)教会は、なぜ毎週礼拝があるんですか。
また信者さんたちも、熱心によく行かれますね。
(A)
そうですね。でも、のんびりの方もけっこうおられますし、
また、本当に来たくても来られない、お忙しい方や病床の方など、さまざまです。
礼拝は、行かなければならないという、ノルマではないことをまず認識してください。
それは義務ではなく、恵みです。サボりたければいくらでも自由ですし、休んでも何のバチもありません。
けれども私たちは、できるだけ日曜日には共に集い、共同の礼拝を守ります。
日曜日を選んだのは、この日が主イエスのよみがえられた朝だからで、また多くの人の休日でもあるからです。
「人が生きるのは、パンのみにあらず、
神の口から出るひとつひとつのみことばによって生かされる」(マタイ4章4節)。
人間は、神によって息吹を与えられた、特別な霊的な存在です。
ただ肉体的に生きているだけでは、枯渇を覚えます。
私たちは礼拝において、神の愛と導きを繰り返し確認し、また新しく生きる力をいただくのです。
(Q)私たちがもっとも神さまの愛と導きを感じることができるには、どうすればいいですか。
(A)
イエスは言われました。
「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。
あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
風(聖霊)は、思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。
霊から生まれる者もみな、それと同じである」。(ヨハネ3章6〜8節)
私はこれは、神さまの霊による導きは、だれにでも時としてあるのだけれど、
その導きの霊が、その人の上にずっととどまることになるかどうかということは、その人によって違う、
という意味のことだと理解しています。
それでは神さまの霊に、ずっといてもらうにはどうすればいいのかというと、
それは、神のみ前に自分が罪深い者であること(自己中心)をざんげし、
神が自分の罪の罰の身代わりとして、救い主イエスをくださったことを信じることです。
(Q)具体的には、どうすればいいのですか。
(A)
神はすべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられます。
そして、その神と私たちとの間の仲保者となってくださるのは主イエスキリストです(Tテモテ2章4、5節)。
主イエスキリストは私たちに、信じて洗礼を受けるようにと言われました(マタイ28章19節、マルコ16章16節)。
これが私たちに与えられる、救いのしるしです。天国に行けるのです。
洗礼は、とにかく受ければ救われるのでしょうか。
いいえ、私たちは、どんな行ないによっても救われるのではありません。
私たちは、ただ恵みにより、愛によって救われるのであり、
それを信じる信仰によって、それを確かなものとして受けとるのです(エペソ2章8,9節)。
洗礼は、信じて従う者が受ける、その、恵みのしるしです。
私たちは、主イエスキリストの十字架によって示された神の愛に、自分たちの身をゆだね、
神の招きによって、洗礼にあずかります。そうするようにと、神がこの式を設定されたからです。
(Q)洗礼を受けるまでには、どのくらいの準備や時間がかかりますか。
(A)
人によって違います。
イエスさまのことを知っており、どちらだといえば信じているのになかなか決心に時間のかかる人や、
キリストの福音に出会って、すぐ信じて、さっさと洗礼式を迎える人や、まったくいろいろです。
しかし私は、自分が聖書に記されているとおり神にそむいた自己中心的な罪人であり、
救い主が必要な存在であると、素直に認めるなら(聖書は、みんなそうだと言っています)、
いつでもキリストの招きに応じていいのではないかと思っています。
(イエスは、幼な子のようになれ、と言われました:マルコ10章15節)
洗礼は、自分があるラインに達したから受けるといったものではなく、
神の愛を信じてこれにまかせるというものでありますから、いわば卒業式ではなく、
来たい人はだれでも入れる、小学校の入学式みたいなものです。
そしてそのゆだねる者を、神さまが必ずとらえてくださるのです。
(Q)受けたくても、洗礼が受けられない、
たとえば猛烈な家族の反対があるとか、そういう方もおられるのではないですか。
(A)
たしかにおられると思います。
家族の方が誤解を解かれて、譲歩くださる時が早く来られるといいですね。
まったく偽物のキリスト教が多いばっかりに(統一教会とかものみの塔とか)、
いろいろな誤解や先入観を持たれているのかもしれませんね。
他にも家の宗教を守るためだとか何だとかで…。
しかし私は、最終的にはご自身で、本当に信じるものに決心なさるのが一番よいのではないかと思います。
そして、家の宗教なり習わしに、愛をもって接し、これを受容されるのがよいのではないかと思います。
それは決して、対立するものではないはずです。
イエスは地上で活動をなされた時、彼を信じた異邦人に対し、
その人の宗教を捨てよとは、一言も言われませんでした。
私は、洗礼を受けられた神主さんさえ知っています(今も神主さんです)。
(Q)そうすると、宗教のグループ分けには、こだわらないということになりますか。
またそうすると、何が大切な教えになりますか。
(A)
最も重要なことは、造り主である神を真剣に求め、
また、隣人を自分と同じように愛するということです(マタイ22章37、38節)。
ですから、もし、キリスト教会が悪に手を染めるなら、本末転倒もはなはだしいわけです。
しかし歴史には、そういう過去があったことも事実です。
顕著な例では、ナチスドイツにおける、教会の迎合です。
大小の程度の差はあれ、他にも起こってきたことです。
しかしそういう場合でも、本当の信仰者は訴えてきたのです(ナチスに対してはボンヘッファーのように)。
ドイツ教会は戦後、国をあげてざんげをしてきました。
主イエスの第一の御心は、表面的なキリスト信者が増えることではなく、
神と隣人への愛がこの地に、宗教の違いを越えて満たされ、
平和と人権が守られていくことに他なりません。
しかしそのためには、祈り合う群れが必要なのです。
(Q)最後に、具体的な話ですが、
教会員になると、何かおつとめがあるのではないですか。
(A)
おつとめは、何もありません。神と隣人を愛するという掟(おきて)の他には。
しかし、自発的な神への応答として、献金をめいめいが自分でよいと思われた分をしてくださるのは、
たいへん感謝です。
また礼拝出席も、何度も申していますが義務ではなく、恵みへの招きです。
生活規制も、健康やエチケットに反しない限り、自由です。
多くの人は献金のことが気になるでしょうから触れますと、
熱心な方は、自発的に月の収入の十分の一を献げてくださるそうです(会計さん以外誰も知りません)。
余裕のない方や、それほど熱心になれない方は、できる範囲や、またゼロでも構いません。
神に対する想いとして、これを為します。
当会ではこの中から牧師の生活も支えますが、そうしない教会もあります。
牧師もまた、何ものにも拘束されず、ただ神にのみ拘束をされます。
教会に対してだけでなく、社会活動にも相当に熱心な牧師があるのも、そういうわけです。