(Q)宗教がなぜ戦争を起こすのですか。キリスト教も、他の宗教の国と、
多くの人の血を流し てきていませんか。
(Q)信者になれば、また本当に信仰があれば、病気や災難から守られますか。
(Q)ではたとえば病気の時、どんなに治るように祈っても、
そのことによっての変わりはない というわけですか。
(Q)信者でなくても教会に行っていいですか。
(Q)教会で、信者じゃなくても結婚式が挙げられますか。
(Q)キリスト教って、もし本当に正しい教えなら、どうして数が増えないのですか。
教会に行っても、不安になる時があります。
(Q)キリスト教の戒律を教えてください。
(Q)宗教がなぜ戦争を起こすのですか。キリスト教も、他の宗教の国と、
多くの人の血を流し てきていませんか。
(A)
キリスト教徒の多くいる国、また国自体がキリスト教信仰を宣言している国が、過去に何度も悲惨な戦争を
起こしてきたことは事実です。また多くのいろいろな宗教の国が、他宗教の隣国と、戦いを繰り返してきた
こともご存知のところでしょう。
しかし私は、それらは本当に、宗教の純粋を守るための戦いであったか、疑問です。戦っている人たちは、
戦争を正統づけるためや気運を高めるために、彼らの神(や仏)の名前を持ち出しますが、みな本音の部分
では、相手の領土や資産、あるいはまた復讐ということが、目標なのです。本当に信仰の厚かった人たちは、
反戦を訴えてきました。(次の<[3]応答編>で触れます)
ですから、宗教が戦争の本当の理由ではなく(それは名目で)、人々の心に巣食う悪い思いや限りない欲が、
このような惨劇を起こすのです。
(Q)信者になれば、また本当に信仰があれば、病気や災難から守られますか。
(A)
そういうことを言う宗教が多いことは、実に残念です。キリスト教の教派の中にも、それに近いことを言う派も
確かにあります。しかし私は、そんな風には全然信じていません。私たちがどんな病気になるか、またいつ死ぬか、
不幸がふりかからないか、そんなことは信仰のあるないに左右されないものです。それらはほとんどいつも何の
いわれもなくやって来るのです。
信仰とはしかし、それらどんな試練の時にも、神が共にいてくださり、そしてそのことを信じることによって、
慰めと励ましとを受けてゆくことであります。それは災いを避けるためのまじないやお守りとは、違うのです。
そしてまた信仰とは、私たちが幸せで何不自由なく暮らしている時にも、神を敬い、畏れ、愛して、神のみ心に
沿うよう自らの生き方を、求めてゆくことであります。
(Q)ではたとえば病気の時、どんなに治るように祈っても、
そのことによっての変わりはない というわけですか。
(A)
いえ、そういう理解も間違っています。祈ると祈らないとでは、やはりそれも全然違うのです。神さまは、
私たちの祈る心と共に働いて、最善を果たして下さるからです。
さて、ここで「最善」という言葉を使うのは、この世は混沌(こんとん)としており、神さまのみ心のままに
全てがなる、完全な世界ではない、ということです。残念に思われるかもしれませんが、実際そうではないでしょうか。
しかし、それが少しでも神のみ心のとおり実現してゆくために、私たちは各々心を込めて祈るのです。また、祈りに
押し出されて、自分にできることを求めてゆきます。祈りは見えない神のネットワークで結ばれて、働いているから
です。だから、祈りをやめないで下さい。祈りは力です。
(たとえ何もできない人でも、祈りそれ自体が、神さまの働きのために用いられてゆくのです。)
(Q)信者でなくても教会に行っていいですか。
(A)
以前にもそういう質問をされたことがあります。しかしそうすると、今教会にいる人たちは、いったいいつから
教会員になったのでしょうか。みな、初めて教会に来た日があったのです。そして教会は、何かあやしい新興宗教とは
違いますから、一回行ったらおしまいだとか、つかまえられるとか、そういったことはここにはありません。ずっと、
自由です。すべて、神さまの導きと、その人自身の意志に任せられています。もちろん、私たちはもっと、多くの人に、
神さまの愛と、生きていくための指針を伝えていきたいのですが、ねちこく勧めるのは私たちに合っていませんし、
いわば自然の流れのままです。
ですから、たとえ導かれて教会員になったとしても、それから後どう神さまに仕えていくかも、一切が自由です。
ただし、仕える者には天国での神さまのお誉めが待っているでしょう。私たちは、そういった自由の中で、神さまの
恵みに感謝し、応答の生活をしてゆくのです。
(Q)教会で、信者じゃなくても結婚式が挙げられますか。
(A)
そういう質問の電話も時々受けます。これは教派によって違います。私たちの団体は、結婚は宗教を越えて
すべての人があずかることのできる、喜ばしい出来事であると理解していますので、どなたでも希望があれば
お受け入れしています。宗教が、二人の結婚を決定・許可するのではないからです。
したがって、教会で式を挙げるということは、人の営みに対する、神の祝福を祈る、という形と意味を持って
います。そしてその祝福は、新しく共同生活を始める二人が、神の愛と、神が自分たちに求めておられることを、
知ることを除いては有り得ませんので、よく神さまの教えを理解していただいてから、準備をさせていただく
ことにしています。
具体的にはそれは、まず教会の礼拝に来ていただくことから始まります。しかしそれは、「何回こなす」と
いったノルマではありません。
(Q)キリスト教って、もし本当に正しい教えなら、どうして数が増えないのですか。
教会に行っても、不安になる時があります。
(A)
私は、正しい・正しくないは、数では計れないと思います。しかし、数に不安なあなたに、世界ではキリスト教が
最大の信徒数だということも、付け加えておきます。日本では、非常に少数派なのです。
それはそうと、やはり本当に大切なこととは、数が問題ではないことを、覚えてほしいと思います。大多数が
間違っている場合もありますし、少ない者が正しい場合も、同じく間違っている場合もあります。正しければ
増えるというものでもないし、本当のところ、正しくあるために勇気が必要で、数が減ってしまうという場合も
よくあるのです。数を誇るのはどこかインチキです。
キリストは、私たちがたった一人でも神の御前に良心をもって立つことができるよう、勇気を求めておられます。
ちなみに、私はただの仲良し集団は嫌いで、少数派で通っているようです。
(Q)キリスト教の戒律を教えてください。
(A)
映画でも有名なモーセの「十戒」。キリストもそれを聖なる教えとして尊ばれ、その内容を、「唯一まことの
神のみを神とし、愛し、仕えよ」、また「自分だけではなく、隣人を愛せよ」、の二つに集約なさいました。
しかしその内容は、キリスト教徒でなくとも、すべての人が守るよう、命ぜられていることではないでしょうか。
ですから私たちは、何か妙な特別な戒律に凝り固まるのではなく、ごく普通の人間でありながら、しかし神の
前に恥じることのない歩みを求めて、隣人の幸せのため、霊的精神的また具体的な生活面で、困難や悪を打破し、
向上を目指すのが大切なことではないかと思います。
そのために、私たちは、神の言葉に耳を傾けるよう、神によって招かれ、また毎週集うのです。ですから
私たちにとっては、集会自体さえ一番の目的にはならないのです。もしそうなら、セクト集団と変わらなく
なります。歴史の中では残念なこともありましたが、注意が必要です。