『神は心を』
知多教会牧師 内藤新吾
私には息子が一人あります。当たり前のことですが、この子を愛しています。まだ6才になったばかりですが、叱らねばならないワガママなときも、だいぶ前から何度もありました。ま、これも、当たり前のことでしょう。そういうときは徹底して叱りますが、愛情をもって叱れば、子どもも必ず親の愛がわかります。愛するからこそ、冷静に叱るのです。
今まで、私はガラにも似合わず、子に手を上げたことはありませんが、おそらくは、子にとって、叱られているときは、たたかれる以上にこわい思いをしているようです。でも、彼が心から反省をしたときには、私は思いきり子を抱きしめてあげます。子も泣きながら、ギュッと抱き返します。そしてそのあとは、もう二人ともすぐにカラッと笑って、楽しいことを一緒に始めます。
私は、私自身も神さまから、そのように愛されていると感じています。
聖書には、《わが子よ、主の諭しを拒むな。かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる》(箴言3章11、12節)とあります。もちろん私は、この箇所から、神を男性のようにとらえるつもりはありません。むしろそれは、当時の聖書の民の表現的限界だったでしょう。神は私たちの父親であり母親です。神は私たちを愛するがゆえに、私たちに、ときに厳しくお語りになります。それは私たちが、罪の中にいるときです。
神は旧約の時代から、民が罪に陥っているとき、預言者を送り、彼らをいさめられました。民はほとんどの場合、すぐには悔い改めませんでしたので、預言者たちは彼らから不評を買いました。そればかりか、たいがいは、ひどい目に合わされました。殺された者もあります。
そういう中で、民から、好評を買った預言者たちもいます。しかしそれは偽預言者たちです。少し紹介をしますと、彼らは《利をむさぼり》《わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う》(エレミヤ6章13、14節)とあります。それはまたエゼキエル13章でも《平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ》(10節)と言われています。代表的な例では、エレミヤの時代の預言者ハナンヤなどが挙げられます。彼も悪人というよりは、人のいいおじさんですが、こうあります《お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ》(エレミヤ28章15節)。
こうして考えてみますと、今日の日課でも、イエスさまが私たちに《偽預言者を警戒しなさい》と言われたことは、それは、恐ろしい外からの勧誘に対してというよりも、知らない間に私たちの中にしのび寄る、内側の貪欲の声に対して警戒しなさい、という場合の方が、多いのかも知れません。私たち自身がそのような、偽預言者にならないように、人の誉れや利得の欲を、捨て去ることが必要です。そしてそれは、自分の力によってでなく、ただイエス・キリストの愛の深さを知ることによってのみ、そのことは可能なのだと思います。
いろんな誘惑があると思います。人の目に善と見える行為の中にさえ、それは隠れることがあります。今日の日課にも、《主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか》(22節)と、内側が貪欲で満たされていた者たちが、主に申し立てをするところが記されていますが、それは現代風に言えば、自分たちはそれなりに熱心に伝道活動もしたし、いろいろと良い業さえ行なったではないですか、という図になるのではないかと思います。でもこれは、程度の差はあれ、実は教会も陥りやすい過ちなのではないでしょうか。
「主よ、あなたのためです」となした代表的な悪例では、かつて二百年間にわたり八度にも及んだ十字軍遠征による、正義の名のもとの略奪や、大航海時代のこれまた布教とセットになった各地の植民地支配、そのたぐいのことは、何度も行われてきたことでした。魔女狩り、免罪符などもそうでした。神さまも、《主の名をみだりに口にあぐべからず》との戒めを、とうの昔から授けてきたのに、「あなたのためです」と言って実は自分たちの腹のためになしているのには、本当に迷惑だったでしょう。彼らは、神の御言葉を読み、また定例的に礼拝や儀式はきちんと守っていても、御旨に逆らう歩みをし続けたのです。
それらは、遠い過去のことだけではなく、近年でも、ヒトラーに迎合したり、南アフリカのアパルトヘイトにお墨付きを与えたのもまた教会であり、程度の差はあれ私たちも陥りやすい過ちです。ボンヘッファーは、これらを容認する教会の伝えるメッセージを、「安価な恵み」と評しました。
これらの根っこには、いつもと言ってよいほど、貪欲がありました。旧約でも王サウルがアマレクとの戦いのときに、何も残して持ち帰ってはならないと命じられていたのに、《上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くし》、それがサムエルから問われても、《あなたの神、主への備え物にしようと、羊と牛の最上のものを取っておいたのです》と、とりつくろった言い訳をしたように(サムエル上15章9、15節)、信仰と無縁でない民が、最も醜くズルい口上を、いつの時代も語ってきたのです。これらに対し、主は、《不法を働く者ども》よ(マタイ7章23節)と、怒りを発っせられるのです。
しかし、私たちは、そういう民なのです。それを認めたいと思います。むしろそれを素直に認め、懺悔をする中に、主が私たちに赦しを給い、私たちもまた、虚言で身をまとわなければならない精神的疲弊から、解放されます。そして私たちが、本当に神と人の前に裸になったときに、神は私たちに、素朴に隣人と共に生きることの喜びをお与えになります。
私たちは自分を、大きく見せる必要も無い。むしろ私たちは、気が付けば、いわゆる世間的には小さいと見られる者たちの中に、より多く、神さまが働かれているのを見つけるのです。
私たちの近くにも、その方たちがいます。そこに一緒にいるとき、実は私たちにも安らぎが与えられます。私たち自身が見失ってしまった、大切なものを思い出させてくれます。
96年に亡くなられましたが、ラルシュ共同体のヘンリ・ナーウェン師は、著書『まことの力への道』(あめんどう社)の中で、神さまの私たちへの関わりの姿を、「ナザレのイエスという無力な者となって、神は私たちに現われ、力という幻想を取り除かれました。」と、紹介をくださっています。
私たちはいつも、「全知全能にして力強い神」に祈りを捧げるけれども、私たちに神を現わされた方、ナザレのイエスが身にまとわれたのは、「力」ではなく「無力」であり、また私たちにも山上の説教において幸いであると示されたのは、そのような人たちであり、「私たちは彼らの無力さを通し、私たちの友情と愛の絆を強めるようにと招かれています。」と述べておられます。
人の誉れや党派心、上下優劣、富や力への誘惑から、主が私たちを解放し、安らぎと喜びに満ちた愛の交わりに、招いてくださっていることを感謝いたします。何も持たず、主と共に歩んでいける幸いを感謝いたします。私のためにすべてを捨ててくださった主イエスと共に、これからも歩んでいきましょう。
祈 り
神さま。私たちは惑わされやすく、また自身の内にも惑わしを持っていることを、御前に告白いたします。貪欲と力、罪の囚われである私たちを、御子イエスの十字架によって打ち壊し、その愛によって解放し、まことの喜び仕える道へと、どうぞ日々導いてください。あなたの中にこそ真の幸せがあることを、私たちがいつも見い出せますように助けてください。主の御名によって祈ります。
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