聖霊降臨後第14主日のメッセージ
  (ルカによる福音書16章1節〜13節)

『不正の富で』

知多教会牧師 内藤新吾



  『遠い夜明け』という映画があります。主人公の実在新聞記者ドナルド・ウッズは、当初、さほど自国・南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策について、疑問を持ってはいませんでした。ところが、マンデラ氏の釈放を求める活動家ピコと接することにより、そのあまりにもひどい差別と暴力の実態に何度も出会い、声を上げても変わらぬ国に対し命をかけて行動し、世界にその証拠を発信していった、勇気ある実際の物語です。
 彼はもともと正義漢だったのではありません。最初、軟禁中のピコと隠密裏に黒人居住区に出かけた時も、単なる取材対象として同行をしただけです。彼はピコを“白人”差別者だとさえ、記事に書いていました。ところがその日、「我々の最大の敵は、ある種の人間が別の人間より優れているという考え方だ」と声を発する、ちょっとした人権集会のあった後で、一夜にして400人以上の学生が殺されたりという場に遭遇して、これはただごとではない、とウッズは真実を究明し始めます。1975年のことです。
 やがて、だんだんとピコの肩を持つウッズに対し、政府トップから脅迫やイヤガラセが続きます。ついには、ピコがウッズに影響を与えるからだろうと、軟禁中の教会のはなれを出ただけで、ピコが不当逮捕されます。ピコは食事もトイレも抜きで拷問を受け、殴られ、大きな脳障害を起こして、翌月獄中にて死亡します。死因は“ハンガー・スト”(自発的餓死)との警視総監のコメントが報じられます。
 当然インチキを確信したウッズは、無許可で遺体の部屋に侵入、隠し持ったカメラで、殴打を受けたピコを撮ります。しかしその写真を持ち、アメリカへ飛ぼうとするところで公安にばれ、5年間の拘束命令が下されます。もう駄目かと断念しそうになるのですが、それでも彼は、時代を変えるため、再び証拠の資料を密かにそろえ直して、見つかったら殺されるかもしれないことを覚悟で、亡命を企てるのです。
 国境の川を渡りボツワナへ、そこからまた英国へ。しかしそれらの、まさに命がけの亡命を手伝ったのは、教会関係者たちでありました。
 ウッズは神父に変装し、逃亡を手伝う車に同乗します。用意されたパスポートは、風貌の似ているアイルランド人の神父、デビッド・カレン師の本物。「これは誰が用意を?」とウッズが聞くと、運転手の、これまた別の神父がにこやかに、「カニ神父は勇敢だ。彼は黒人なのに命を懸けてる。それはカニ神父が、“盗んだ”ものだ」と答えて、ハッハッハと笑うのであります。
 亡命は無事成功。世界は初めて確かな資料により、アパルトヘイトの実態を知らされてゆきます。1977年のことでありました。しかしその陰に、カニ神父の『不正』な行動があったのは、実に愉快なことです。彼の不正がゆるされるものだとは、多くの人の思うところでしょう。私も、彼に拍手と賛辞を送りたい、その一人です。
 とかく教会の、それも指導的立場にある人は、「いや、でもやはり“盗み”はよくないよ。デビッド神父に断りを得れば、きっと理解をしてくれたハズだし…」と、お説教をし始めたりしがちです。しかし、事は緊急を要していたのです。悠長なことは言ってられません。それに、実際はどうであったかはわかりませんが、もしデビッド神父が、頭のかたいワカラズヤであったのかもしれないのだし、もしそうなら、お手上げになっていたことでしょう。とにかく、安全地帯にいる私たちが、一生懸命行動した人たちを批判できるいわれなどは、どこにも無いのです。
 同様のことは、いくつでもあります。もう一つだけ例をあげると、これも映画ですが、「サウンド・オブ・ミュージック」の終りごろのシーンです。ナチスに従うことを強要されるトラップ一家が、ついに決死の逃亡を企てて修道院に駆け込みますが、シスター達がかくまう場面です。隠れていたのが見つかり、あわやというところ、表に停まっていたナチスの一番前の車に飛び乗り、一家は逃げます。当然ナチス兵は、これを残る2台で追おうとします。しかしエンジンが、ウンともスンともかからないのです。実はこれは、シスター達がちょっと、細工をしていたためでした。彼女たちは告白します「院長、私は罪を犯しました」。すると院長も、「私も罪を犯しました…」。そして「罪?、どんな罪ですか」と尋ねます。彼女たちが袖の中からそっと同時にのぞかせたのは、工具や、抜いた車の部品でした。私はこの映画を観た時も、思わず拍手をしてしまいました。
 正直なところ、ヤルなあー、やっぱこうでなくちゃね、とさえ感心をします。大切なことは、誰からも非難を受けないことを守っていることではなく、必死になって、困っている人のために何かをすることではないかと思います。なかなか出来ないことではあるけれども、少なくとも、もう人から、いつもいい子で見ていてもらわないといけないような窮屈な信仰は、私たちには不要です。
 さて、本日の聖書箇所で、イエスの譬えが少々強烈であるために、「きっとこの話は、私たちが、人生の限られた時間内で何とか知恵を得て、救いに至れ、ということを言われたのだろう。まさかこの管理人がしたような不正は、ゆるされるはずがない」との見方をする人達も、一方にはあります。それはそれで慎重な意見ですが、しかしまた一方には、「本当にそれだけだろうか。もしそうだとすると、譬えに続くイエスの解説の部分、特には9節の《不正にまみれた富で友達を作りなさい》とはどういうことなのか、文章がつながらない」との疑問から、「イエスは、私たちが、人のため賢く大胆に生きることを求められたのであり、そのためには不正が一切無いことを心配する必要はない」との見解に立つ人達も存在します。これはかなり、思い切った意見です。
 どちらが絶対かは、決定はできないことでしょう。しかし、このような意見の分かれる話を、イエスがなされ、またルカも編集をしたのです。ということは、私たちが自由な選択をすることもまた、ゆるされることでしょう。私は、後者の見解に立って、この箇所を読む者であります。それが絶対とは思いませんが、自分はその読み方で、気が楽になり、また頑張ろうという元気が出てきます。
 イエスはここで、この世は《ごく小さな事》であると言われます。また、人のため生きたかどうかが、《忠実》であるかどうかであると見られます。これが私たちに求められていることです。もしこの世が大きな事であるなら、一切の不正はゆるされません。しかし《大きな事》とは、天国での私たちの生活です。そしてこの世と天国、どちらの生活においても覚えられるべきは、人を大切にするということであり、それが求められている《忠実》さなのです。この世で人を愛する者は天国でも愛し、この世で人を愛さない者は天国でも愛しません。11節では、この世は《不正にまみれた富》それ自体とも呼ばれています。こういうものに対して、あまり必要以上に神経を奪われるのは、感心できないことです。私たちは、これらの拘束から解かれています。だから、大胆に人を愛そうではないですか。主の十字架は私たちの一切の罪をあがなうのです。恐れることはありません。


祈 り
 神さま。御子の十字架によるあがないに感謝いたします。どうか私たちが、既に勝ち取られた者であることをいつも確信し、またあなたの愛によって動かされて、大胆に隣人を愛していくことができますように、私たちを強めてください。また私たちが、小さな事にとらわれず、大切な本質に目を向けていくことができますように、私たちを御霊によって導いてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

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