『愛ゆえの希望』
知多教会牧師 内藤新吾
私たちはみんな死にますが、そんなことわかっていることですが、それと直面するとき、心はそれを受け入れることはできません。悲しいのです。いかに信仰が与えられても、やはり悲しいのです。悲しみを否定することが信仰なのではありません。イエス様も、愛する人々の死を悲しまれました。ラザロが死んだときも、どうしてこの青年が死なねばならなかったかという、憤りと悲しみで、涙を流されたのです。悲しいことであるから、ナインのやもめに対しても、若くして死んだ息子を甦らせてあげたのです。悲しみはむしろ、神から与えられた、神の似姿としての愛の感情です。
主イエスが葬られたとき、慕い、つき従っていた女性たちの悲嘆は、どれほどのものだったでしょうか。まさに悲しみのどん底。ただ一つだけ、まだ彼女たちが主のためにできること、そのご遺体に香料を塗ってさしあげる、それだけを心の切れそうな支えの糸に、彼女たちは墓へやって来たのであります。その香料も用意するのに、主が処刑された直後から安息日のため閉まっていた店が、一日をおいて土曜の夕暮にやっと開き、やっとのことで購入して、そして日曜の朝早くに、主のもとにやって来たのです。この間、彼女たちは、自分の心をどこに置いてよいかさえわからない、そういう状態で、このときを待ったのです。だから、そのたった一つの心の支えさえもが、プツンと切れたとき、彼女たちは完全に、失意の淵に突き落とされたのでした。ヨハネ福音書に、マグダラのマリアが復活の主を見てもそれがイエスだとはわからなかったとあるのは、おそらく、愛するなきがらさえ無いことに、涙で視界がグニャグニャになっていたからではないかと思うのです。
このとき、既に主イエスは甦っておられました。そして、遣わされた主の天使も、墓のそばに待機しています。しかし彼女たちは、いったん失意の淵を経験するのです。天使たちは、彼女たちが近づいて来るその墓の遠くから、声をかけて、泣く必要が無いことの説明はしなかったのです。いったんは涙し、途方に暮れることを、彼女たちが経験したことを、ルカ、ヨハネは記しています。マタイ、マルコはおそらく簡略化したのでしょう。
私たちも、同じように、涙から歓喜に変えられるときを、経験するでしょう。今は、しばし、愛する者との別れは涙です。しかしそれは、その何倍も喜びに満たされるための、愛する者だけが経験することのできる、貴重な準備のときなのです。愛する者だけが悲しむ。しかしまた、悲しむ者だけが喜びを経験するのです。
サン・テグジュペリは「星の王子さま」の本の中で、そのことを、キツネと王子さまとの会話に託し、こう書いています。王子さまとキツネの、お別れの場面です。キツネが、「ああ!……きっと、私は泣いちゃうよ」、すると王子さまがしばらく続く会話の後で、「じゃ、あなたは、なんにもいいことはなかったじゃないか」と聞きます。するとキツネが、「いや、そうじゃない。私は、得るものがあるんだ。あなたが行っても、この黄金の麦の穂を見ると、あなたのことを思い出す。この思い出があるから、私は、あなたがいなくなって悲しいけれども、しかし、すべてを失うわけではない。かえって、私は、あるものを得たんだ」と答えます。そして、「いちばん大事なものは、心でしか見えない。いちばん大事なものは、肉眼には見えないんだよ」と教えるのです。
私たちは、愛することで、たとえその人が地上から取り去られても、この世においてもかけがえのないものを得、そして来たるべき世においても、愛したがゆえに悲しんだ、その何倍もの喜びを、やがて経験するのです。主イエスは、その初穂として、私たちのために甦られました。そして、主が私たち愛する者すべてのために甦られたということは、主の復活は、単にこの世で私たちが形成する、クリスチャンというグループにだけ独占されるものではないことを意味しています。大切なことはグループによる線引きではなく、隣人と互いに愛し合うことです。愛し合うすべての者のために、主は甦られたのです。
私の母は、私が3才のとき、妹を産んだその日に死にました。しかし優しかった母の思い出は、しっかりとこの胸に残っております。父も8才のときガンで死にましたが、強くて優しかった存在は、今も私の心の中で柱となっています。私がクリスチャンになったのは、クリスチャンホームに養子に行ってからですが、生みの父も母も、ノンクリスチャンでした。しかし私は、生みの父母も、もちろん養子に来た家の父母も、天国で再会できることを信じて疑いません。
イエス・キリストが唯一の救い主である。これは真実です。しかしそれは、新たな選民を作るためのものではない。クリスチャンは、主がもたらされた喜びの知らせを、伝えていくために遣わされている存在であって、そこに救いの枠が狭められているわけではないことを謙虚に知るべきでしょう。主イエスご自身は、私たちの知らない領域で、その愛する者たちをすべて、主が直接彼らと出会い、彼らが主を拒まない限り、何の制約もお受けにならないでお救いになるのです。だからこの方に、私たちの愛するすべての人たちを、委ねて安心なのです。
教会の歴史は、過去に何度も、自分たちだけが救いを専有しているとの思い上りから、過ちを行なってきました。宣教という名のもとになした隠れた搾取や、他民族への迫害を、私たちは神の前に懺悔し、もしまた同じ根を今も持っているならば、主にそれを打ち砕いていただくことが必要です。私たちは何者でもないし、また正当な条件を整えているから主に受け入れられているわけでもないのです。ただ神の愛によって、私たちは赦され、また働きに召されているのです。
ペトロの裏切りを考えましょう。彼は確かに後悔はしていたでしょう。しかし主が人類のために死なれ、甦られたことを知りませんし、立ち直りのしようもありませんでした。しかし主は、既に、彼に赦しを与えておられ、新しい使命も用意してくださっていたのです。彼が復活の主を信じるようになる以前から、主は彼を愛のゆえに受け入れ、また召されておられたのです。彼が懺悔し、信じ、今度は裏切らない決心をしたならば受け入れようというのではないのです。すべてに、主の愛が先行していたのです。言わば、彼が正当な条件を充たしたから主が受け入れられたのではないのです。むしろそんなものは全然なかったのです。この、主の愛の先行ということを考えたとき、私たちの陥りやすい党派心などというものは、何とちっぽけで虚しいものであるかと感じさせられます。
主の使いは、主の墓前に来た女性たちに、主が復活されたことを知らせ、弟子たちにもそう伝えるようにと告げました。「弟子たちとペトロに」と語ったのは、ペトロが自分では、弟子であったことの資格すらもう無いものと思い込んでいるだろうから、そのことを配慮しての言葉でした。そうではないことを、あえて彼の名も付け加えることによって分からせ、またその言葉が聖書に記されることにより、後世の私たちも、どんな過ちからも、主の愛の先行によって赦され、立ち直らせられることを、知らせるためです。復活の主の愛が、私たちすべての者を包んでいます。平安のうちを行きましょう。 アーメン
祈 り
神さま。
主イエスの復活により、死を滅ぼし、私たちに永遠の命の門を開いてくださいましたことを、感謝いたします。また、愛する者を御手に委ねることができ、すべて御旨の通りなさってくださることを、信じることができます平安を、感謝いたします。
どうか一人でも多くの方が、この福音により、慰めと希望を得ることができますよう、導きをお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
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