『改革』
知多教会牧師 内藤新吾
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
(マタイによる福音書5章6節)
高校を出て、20年近くが経つ。中学高校と連続した私立で、教師が殴りまわすことで全国的に有名になったその母校は、ただ進学率の良さだけで全てのツジツマが合わせられていた(80点以下は5点につき1発殴られるということもザラだった)。そんな学校とは知らず入学したのは、どうやら後にも先にも私だけのようだったが、6年間はひたすら受験制度のおかしさと、真っ向から取っ組み合いをした毎日であった。いわゆる変わり者を通したわけだが、おかげで何も身に付いて残っているものはない。反骨も気合いが入りすぎ、一切ノートを取らない主義を通したことは、今思えばマイナス面も大きかったようにも感じるが、だいたい多感な少年期に、音楽や美術の授業すら無いという偏ったカリキュラムを組む学校の方が、どうかしているというものだ。しかし、在学中、どんなに学校に文句を言っても、当時そのことを一緒に問題にしてくれる大人は、周りには皆無であった。せいぜい、今は耐えたら後はいい将来が待っているからと言うぐらいで、根本の問題を一緒に憤慨し、何とかしようと言ってくれる者は誰もいなかった。非常に孤独な闘いだった。仲間にと期待した生徒らも、生ける屍のようだった。事実、他校からはそのように見られていた。しかしそれは、20年を過ぎた現代を予表する、ひとつの縮図であった。 今になって、やっと親も、子が言った学校のおかしさを理解する。ちなみにその母校は、サリン事件主犯格の何人かを出している。偶然とは言えないだろう。しかし現代は、そういった無味乾燥の、ただ結果至上主義の末期症状が、あちこちに噴出してきている。今になって驚く大人たちは、その兆候を見逃していたに過ぎない。それに気付かなかった者とは、問題を感じずに生きてきた者である。時代が健康で平和であればそれでよいが、いま大勢がそれをやるにはあまりにも不健全の時代である。そして、無関心な大人たちが、今のこの子どもたちの不幸な世界を、築いてしまった。もし、たとえ教育のことでなくても、横たわる大きな問題に対する闘い、取っ組み合いを大人がやっていれば、子どもたちは自然、破滅にただ進むあきらめたような歩み方は、していなかっただろう。子どもは、大人に絶望したのである。しかし、しかし、今からでも遅くはない。
教会は、現代にあって、思いきり根本にふれる問いかけを、していくことが緊急に必要とされている。社会の病状は、どんどん悪化しているからだ。放っておけばもっとひどくなる。そして、あり方、生き方の根本を問い直すということは、かなりの、世の形成してきたものに対する、「否」を宣戦布告することである。もし個の教会がこれをできなくても、キリスト教会全体としてこのことに関わらなければ、教会は地の塩としての使命は果たしていない。はたして、私たちの団体はどうだろうか。何か、依然として続く悪の体制のどこかからでも、文句を言われたことがあるだろうか。それとも、もみ手をされて歓迎をされているだろうか。何度も懺悔し、刷新をされていきたいものである。
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