神のためにがんばろう
知多教会牧師 内藤新吾
何をするにも、人に対してではなく、
主に対してするように。
(コロサイの信徒への手紙3章23節)
私は神学生の時、バイトの王者であった。夫婦寮がないのに学生結婚をしたから、そのツケだと言われればそれまでだが、生計を立てながら、神さまのことばかりいつも考えていた。その気持ちは今も全く変わらない。ずっと、走り続けてきたような感じがする。
今現在はバイトはしていない。牧師稼業(?)一本である。面白いことに、夫婦で働いても出ていく分が山ほどあり、貯金はいつもゼロである。余力のあった時も、良いと思うことのために思いきり使い切ってきたからである。しかし、我家はいつも、この、一体どうなるんだろうというギリギリのところで必ず不思議に回転する、神のしくみを楽しんでさえいる。
ところで、私は基本的に、牧師の生活は神によって守られるものだと思っている。つまり、経済的にも、信徒と牧師の関係は、与え手と受け手の関係ではなく、共に神に仕える共働者だと考えている。役割が多少違うのであって、求められるのは両方、神に対して熱心であることである。だから少し、この世の給与のやりとり関係とは、違うのである。他教団の牧師の中には、教会は彼を支える力はありながら、彼は自ら志願してタクシードライバーで自給し、立派に教会の霊的指導を成し遂げられた方もおられる。こうなると、教会と牧師との関係は、経済的授受の関係が前提になっていないことが、明らかとなってわかる。ちなみにその教会は、すばらしい会堂も建て直したが、なおすばらしいのは、ずっと社会的に預言者として使命を果たしてきた有数の教会であることだ。
牧師にとって一番必要なことは、神の言葉を語る使命である。その生活を支えるために信徒数が足りていようといまいと、牧師はその使命のために生きていく。もちろん、共にそれを大切にし、できるだけそれに専念できるよう、自主的に応援してくれる信徒の群れがあることは、嬉しい限りである。が、牧師はそれでも、ただ神の御言葉にだけ拘束される。
牧師は、神の命によって派遣され、共に神の言葉に生きようとする群れが一緒にいる時、そこにとどまり、そして経済的な困難がもしあるならば、バイトをしてでもやってゆこうと思う。その歩みを、神は守られる。そういうものだと信じている。だから私は、以前から、この団体にも自主的にそれを望む、ワーキングパスターの存在があっていいんじゃないかと言い続けているが、それはまだ認められていない。多様な存在があることが、いっそう私たちを自由にし、そして力づけるものだと、信じてやまない。
信徒が捧げてくださる献金は、尊い。しかしそれは、真剣な思いを持ち「神に」捧げられたものとして、尊いと思う。だから、すなわち極端な話、牧師がそこの教会にいなくても、礼拝が守られ、真剣に献金も捧げられる、というのが本当だと思う。けれども、あちこちの教会でそれとは違う感覚の話を聞くとき、私は非常に悲しくなる。
これから、牧師の数が教会数よりも目に見えて減っていくとき、いよいよそのことが大切になってゆく。個の教会は牧師を占有するべきではないし、牧師もまた今まで以上に大きな視野で、ただ組織維持の姿勢だけではなく、真に神の御心が地でもなされることを願い、社会全体の病巣のためにも闘っていくことが求められてゆく。いや、今既にそうであろう。神が最後の砦として期待をかけた教会が、このことに沈黙をし続けるならば、やがて近い将来、世界は滅んでしまう。愛する者たちの幸せが続くことを願うならば、私たちは今こそ、自分たちの枠を取っ払うことが必要なのではないだろうか。
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