今月のメッセージNo.35

ルーテル知多教会月報「わかちあい(第35号)」より

生きる意味

知多教会牧師 内藤新吾


わたしにとっては、生きるとはキリストであり、
死ぬことは利益なのです。

(フィリピの信徒への手紙1章21節)

 この原稿内容は、印刷される前、最後の入院をなさった杉山則子姉にお話ししたものである。それは、前回の月報の続きであるということも付け加えて。「早く天国に召されたい」と二人きりの病床で姉が話されたので、私もそれに対し率直に、このお話をした。夕暮れの病室が暗くなる中、姉は真剣に聴いてくださった。以下がその内容であり、最後の数行だけが書き直しである。
 この世には、御心でない事もよく起こる、ということを前回の月報にて書いた。特に人が病や事故で亡くなる場合、それは非常に残念なことである。今回はその続きを少し触れる。それはしかし、今でも、神の特別な配慮、奇跡もまた起こる、ということである。
 奇跡はそう頻繁には起きないかも知れない。しかし確かに存在する。奇跡が起きる場合と起きない場合の違いは、受け手である者に信仰があるかどうかというような違いではないことは前回にも述べた。信仰深い者にも求めた奇跡が起こらない場合が十分にあることは、パウロの三度にもわたる真剣な祈りにもかかわらず、それがかなわなかった例からもよくわかる(コリントの信徒への手紙II 12章)。しかしそれでも、現代においても、神の奇跡的なわざが行われることがあるのを、私たちは見て知っている。
 実際、私も何度もそういうことに出会った。当然死ぬはずだった人が助かり、まさに奇跡だと思うような事には何度も遭遇した。また私自身も、まずは死んでいたはずだというような事故の中から、車は前も屋根も横も、小さな谷の下へ何度も転がっていってボコボコになったのに、からだは友人共に全くの無傷で、現場検証の警察からも「本当に乗っていたの?考えられない。死んでるよ。」と言われたほどのことも経験した。
 しかし私は、奇跡は、信仰ある者が勝ち取るというようなものではないと思っている。奇跡は、神の特別な介入であるが、それは、与えられる者に、まだ神から託された果たさなければならない使命が残されていた場合にだけ、起こるのだと思う。人間が神の意志を決定するわけではない。私たちはただ受けるだけ。また誰も何も誇ることはできない。不思議な力が働いて奇跡がこの身に起こったとしても、それは受けた者が何か偉かったわけではない。神がその人に、この世に残って為しなさい、という仕事があったから、そのことが起こったのである。また逆に、神がその者に託した使命が、期待どおり完成されるとき、神は自然なころあいを見計らって、その者を召し寄せる。ご苦労さま、よく働いてくれましたねと、御もとに招かれるのである。
 則子姉が、「早く天国に召されたい」と打ち明けられたその想いを、私はそのままお受けとめした。しかし、その上でこう付け加えた。「神さまがあなたに託された使命が、完成する時、そのことが成されます。」
 則子姉が、天に召された。残されたご家族は本当におつらいと思う。また私たちにとっても、非常に淋しい別れであった。けれども、私たちは、神が則子姉に、限りないあわれみを注いでくださったことを知っており、また感謝している。姉は、地上の務めをすべて終えて、神のもとに召されたのだ。今度は天国での働きが、もう始まっている。私たちは、地上を歩む者も、地上を去りし者も、共に神のご栄光のために力を合わせる者である。


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