今月のメッセージNo.34

ルーテル知多教会月報「わかちあい(第34号)」より

なぜこんな目に

知多教会牧師 内藤新吾


あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。
わたしは既に世に勝っている。

(ヨハネ福音書16章33節)

 苦難に出会う時、多くのキリスト者は、「これはいったいどういうことなのだろうか。神様は私に、何を学ばせようとしているのだろう。」と、思うことが多いようです。もちろん、そのような訓練とも言えるような試練も、中にはあることでしょう。しかし、たいがいの場合において、苦難はむしろ、何のいわれもなくやって来るものです。

 まったく、なぜこんな目に会わなければならないかという、納得のできる理由づけなどどこにも考えられないような出来事が、突如として起こるのです。それは、私たちの信仰が足りない時に起こるわけでもありません。信仰深い人にも苦難は襲い、信仰のない人にもそれは起こります。そしてまた、信仰があるならば苦難が来ても、必ずその災いは取り除かれるというわけでもありません。これが事実です。

 雲仙の土石流、フィリピンの火山による被害、バングラデッシュの水害、阪神震災、つい先日でも、集中豪雨と土砂崩れで亡くなられた方々がありました。みな何のいわれもなく襲った不幸です。これらはあまりにもひどい出来事でしたが、程度の違いはあっても、私たちにも同様に小さな災いはあちこちに降りかかっています。

 これらに対して、いったいだれが、「いやそれはきっと、何か神様の目的があるのだ。今はつらいだろうが、長い目で見たならば、神様のなさることには間違いがないのだ。」とか、「それはあなたを訓練するためだ。」などと言うことができるでしょうか。それらは、間違った考えです。もし、そんなことなら、意地悪で嫌われ者でもいいから、大切な人を失わない方がいいに決まっています。真実は、そんなことではなく、理由や責任はどうも神様にも無いようです。

 私は、自分の体験からも、神はこの世では全能ではないと思います。もちろん神は働かれますが、御心のまま完全になるのではなく、制限があるようです。なぜかはわかりませんが、そうなのです。もしかしたらそれは、制限がなければ、世に真の信仰などは起こらず、ただご利益信仰ばかりになるからかも知れません。いずれにせよ、私は、真剣に奇跡を求めますが、それがかなえられる場合もあれば、かなえられない場合もまた多いということを、よく実感します。そのどちらの場合も、当事者をはじめこちらの側の信仰の姿勢にまったく違いが無くて、両方の事が起こるのです。願わしい事が、愛である神も願われていると確信する事が、一方ではかなえられないのです。

 私は、この世では、すべてが神の御心のままに、その願われるままに、完全にはなされていない、いやむしろそうでない事が多い、神はこの世では全能ではない、ということを素直に認める方が、ずっと気ばっているより、ホッとするような気がします。変に護教的になるより、よっぽどその方が信仰的であるとさえ思えるのです。

 私は、母が3才、父が8才の時に死にました。その父も妻と三回死別しています。また私の養子先の父も、信仰深い人でしたが、早く召されました。私はこれらが神の御心とは思っていません。むしろそんな計画は無いことを確信しています。この世は不完全です。悪もはびこっています。しかし私たちは、どんな試練の時にも、神が共にいて、私たちを愛し、励まし、また慰めを与えてくださっていることを知っています。また感じます。そして、神が私たちと共にいてくださることによって、どんな苦難もが、決してそのままで無駄なものには終わらないことを知るのです。

 私たちは地上では旅人です。寄留者です。御心が地でもなされるようにと願いながら、しかし天をあおぎ、御国が早く来るようにと祈り、旅を続けます。神が共にいてくださることによって、それを信じることによって、この旅路もまた、苦労は多くても、慰めと感謝に満ちたものになるでしょう。そして天では、測り知れないほどの、多くのそれをいただくのです。神は、私たちが苦悩の中にいる時、もっとも近く私たちのうちにいまし、もっとも深く私たちに愛を注いでおられます。神と共にゆきましょう。

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