復活後第一主日のメッセージ
  (マルコによる福音書16章9節〜18節)

『小さな者』

知多教会牧師 内藤新吾



  主イエスの復活が記されているところ、そこにはかならずマグダラのマリアの名が出てきます。復活の主が最初に姿を現され、また弟子たちにその知らせを最初に伝えたのは、彼女でした。さらにはその前に、主が十字架にかかる時も、また葬られる時も、そばに居たのはこの彼女でした。四つの福音書はすべて、このことを共通して記録しています。
 この女性は主によって、かつて七つの悪霊を追い出してもらったことがある、と聖書は記しています。具体的なことはわかりませんが、とにかくたいへんな状況から、彼女は癒されたのだろう、という推測を私たちは持つことができます。その彼女が、主に対して、どれほど深い感謝を覚え、また慕い、主の行かれるところどこへでも、つき従って行ったかということは、想像に難くありません。
 彼女は、おそらく当時の社会からは、さげすまれた存在でした。重い病気そのものが、汚れた罪によるものだと思われていた時代、しかも女性は低い価値しか置かれず、不当な扱いを多く受けていた時代です。主イエスは、そういう人のもとに先ず、足を向けられるのではないでしょうか。というか、常にイエスは、そういう者たちと共にいようとされるのです。地上を歩まれた時もそのようにされたイエスに、時の権力者たちはいい顔をしなかったでしょう。とりわけ、宗教界のお歴々はそうだったのです。しかしイエスは、そんなことを物ともされなかったのです。むしろ、彼らの欺瞞を次々と痛烈に批判なさいながら、その対立を激しくされていかれたのです。主の、その愛のゆえに徹底した態度に、その愛を受け、その愛が痛いほどに分かった者たちは、全霊をもって主に仕えていこうとしたでしょう。彼女も、そうした一人、いや、その筆頭だったのです。
 主の復活を覚えるこの季節、イスラエルの地にも毎年、野に草木が萌出で、たくさんの花々を咲かせます。その中にひっそり、その道端に、マリアあざみと名づけられた花が咲くそうです。傷を負った、しかし主によって癒していただいた一人の女性が、復活の主と出会い、驚きながらもそれを懸命に使徒たちに伝えた。人々もそれを、花の名に刻み、覚えたのです。主の愛が、そのような、小さな者に向けられていることを、そして、その小さな者が、主の愛によって突き動かされる者に変えられていくことを。だから、私たちは恐れることはありません。小さなあなたが、主の証し人として召されているのです。
 今日の日課の中には、もう二人、目立たない人物が出てまいります。そのことも、やはり同じことを示しているのではないかと思います。彼らもまた、主の復活の証人となってゆきます。ルカ福音書にもある、エマオ途上での出来事です。この二人も、無名の弟子でした。その一人はクレオパという名であったそうですが、その名も有名ではありません。もう一人は、名前さえ記されていません。さきにマグダラのマリアに現われた主は、今度も、無名の弟子を選んで現われ、その口を通して証言をさせられるのです。
 結果は、どうだったでしょうか。残念なことに、今日の日課には立て続けに、短い文中に三箇所も、「信じなかった」「信じなかった」「信じなかった」という反応が示されています。こんなものなのです。もちろん、その後、主ご自身が彼らにも現われて、その不信仰をとがめ、彼らも信じるに至りますが、遣わされた者たちがしっかりその務めを果たしても、そこに信仰が起こるかどうかということは、メッセージを伝える側にはもう責任がないのです。また主も、結果がうまくいくようにと、私たちの能力や上手なやり方を、求めてはいないのです。求められていることは、忠実であることです。そしてそれは、どんな小さな者にも、応えることのできることなのです。
 私たちは、伝道のことを考えるときも、何か巧いやり方はないかとか、どの層を対象にすれば効果的だとか、方法ばかりにもし関心がゆくならば、それは少し危険信号でしょう。それがどんどんエスカレートすると、とにかく効率優先になったり、経済でしか物を考えなくなったり、また無理やり目標を達成しようとして、手段を誤ったりしてゆくことにもなりかねないのです。過去の長いキリスト教会の歴史の中にも、そういったことが度々あったことを、私たちは謙遜に受けとめ、主の前にへりくだり、ただ主の証し人として忠実な歩みを成さしめ給えと、祈っていくことが最も大切なことではないかと思います。
 私たちは、小さな者であってよいし、実はまた、主が私たちを遣わそうとされている行き先も、いと小さき者のところなのです。主は、このエマオ途上の弟子たちと会われたとき、「別の姿で」近づいておられます。これは、復活したのだから地上的な姿ではなく、天的な姿だったんだろう、ということではありません。もしそうだったなら、近づいて来ただけで、そう感じたことでしょう。しかしそういった様子は、全く記されていないのです。ですからこれは、イエスが、全然違う人の姿・顔かたちで、現われたという理解をする方が自然でしょう。そしてこのことは、復活の主が、私たちのまわりの人たちの中に、隠されている、いや隠れておいでになる、ということでもあるのではないかと思うのです。
 マタイ25:40や、本書14:7でも主が言われたことは、弱者、苦しめられている者、…マグダラのマリアもそうでしたが、社会の隅に追いやられている人のところに、主の心が共にあるということです。文章表現としては、「彼らはわたしである」とさえ断言しているのと同じ程なのです。しかしそのことは、私たちに対して、わざによらず神の前に義とされるということと、何ら矛盾し相反することではありません。また、安易に神の義認を、個人の内的な事象だけに限定するものでもないのです。そうではなく、本当に主の愛によって救われるとは、私たちを、能動的に、他者に対して関心を持たせ、主が私たちをその手足として、他者の幸せのために奉仕する者として、派遣をされるということであります。なぜならそれは、私たち自身が、実は、霊的苦悩から主によって勝ち取られ、解放された小さな魂だったからでした。主が私たちを愛し、その痛みを担ってくださったからでした。だから、私たちはそれを忘れないでいたいと思うのです。そして、日々、主の愛の中、生かされ、さらに仲間との絆を深めてゆきたいと願うのです。
 さて、最後に覚えたいことですが、そうすると、主が私たちを、傷ついた者、苦しんでいる者のところに遣わそうとされておられることを考えると、また彼らが苦しみから解放されることを主が望んでおられることに思いをはせると、私たちのなすべきことは何でしょうか。それは決して、単に一日一善的な勧めではないことが分かるはずです。誰かに親切を施すだけでも、大きな悪がのさばり、大勢の人たちを踏みにじる社会の構図に何ら否を突き付けないならば、教会は、世に対して、むしろ改善を後らせ悪を助長する、弊害とすらなってしまうことを、私たちはしっかりと覚えておくべきでしょう。弱者を虐げる現代の様々な構図、積極的にこれらについての学習をし、そして問題がそこにあることが分かれば、勇気をもって発言をしていくことも、主が現代、教会に求めておられることです。私たちがただ、主に勝ち取られた小さな魂であることを覚えるとき、その勇気も与えられるでしょう。主が私たちの内にいます。主と共に歩んでいきましょう。 アーメン


祈 り
 神さま。
 あなたの愛によって、罪深きこの小さき者が赦され、そして小さきままで、あなたが福音の使者として用いてくださることを、おそれつつ感謝いたします。
 私たちが、あなたの御心の注がれるところであればどこへでも、何者をも恐れず共に行き、あなたの愛を証ししていくことができますよう、私たちをあなたの愛と勇気で満たしてください。私たちの主、イエス・キリストによってお祈りします。 アーメン

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