昇天主日のメッセージ
  (ルカによる福音書24章44節〜53節)

『それって過激?』

知多教会牧師 内藤新吾



 主が天に昇られた時、もしその場所がエルサレムであったなら、どうだったでしょうか。
 おそらく、大勢の人々が見て、驚き、庶民のみならず宗教家のお歴々たちも、こりゃ参ったと、信者に転回したでしょう。大ブレイク間違いなしです。
 しかしイエスはそうされなかった。むしろ、ひっそりとした場所までわざわざ行って、そこから天に昇られたことが、聖書から分かります。
 ルカが記すこのベタニアは、イエスが親しくされた、マリア、マルタ、ラザロの居た小さな村で、エルサレムから3キロほどの距離にあるとはいえ、非常に静かなところであったようです。
 最近、死海写本の発見諸資料から、エルサレムの東方にハンセン病患者を隔離するよう規定があったことが判りましたが、このベタニアが、その村であったことはほぼ間違いがありません。この村の住人《らい病の人シモンの家》(マルコ14:3)の記述も、それを裏付けるものでしょう。
 イエスはこの村と、そこに住む人々を、特に心に覚えておられたことが、やはり聖書を読めばうかがえます。十字架にかかられる直前なども、連日エルサレムに行かれても、わざわざいつもベタニアに泊まりに戻られます。
 より機能的や、あるいはまた効果的なことを考えれば、別な行動パターンを取る方を、私たち普通の人間は考えるでしょう。都で終始、宣伝となる活動をし、そして社会的に力のある人たちと仲良くやっていこう、というのが世間一般の戦略でしょう。しかし、イエスはそうではなかったのです。
 このことはイエスの、宣教活動の日々にも、やはり同じ面が多々みうけられます。例えば、当時の宗教感覚で言われる「罪人」に分類される人々と、頻繁に会食を共にされたりしたこともそうです。これは当時の宗教者たちへの、挑発的な態度とすら映ったものでした。もしも、通常私たちが考えるような、あえて物議をかもすようなことはしない、何事も平穏無事に、また出来るだけ一般人から好印象を受けるような方法や効果をねらって、ということならば、イエスのやり方は上手ではなかったでしょう。
 しかしイエスにとっては、そんなことは実にくだらない問題でした。もっと大切なことが他にあるのです。
 人間が人間を疎外している状況、人間によって苦悩に追い込まれている人々がいるという事実。それらの痛みを負うている人々を、第一に愛するというのが、イエスの、人に対する最大の関心事でした。
 悪魔と死に対しては、霊的な戦い、そして生身の人間の世界に関しては、人々の間にある無用な壁を壊すことが、イエスの使命とされたところでした。両方とも、人への命がけの愛が、そこに根となって横たわっています。
 大切なことは、この、人への愛であって、どれだけどの宗教の人が増えるとか、そういうことではありません。
 だから、イエスの歩まれた道とは、どれだけ人を愛したかということを、私たちに問うものであり、どれだけ私たちがうまく宗教を広めたかというようなことは、全く問題にならないことは当たり前のことであります。
 しかしそれなのに、なぜか時々あちこちから、信徒数をもっと増やさなければならないということが最大の使命であるかのように、声を聞くことがあります。中身の論議が抜きで、とにかく受洗者を、といったような感じです。それは残念に思います。
 もちろん、イエスの愛が純粋に伝えられて、それを共に公に告白できる者の群れが、一人でも増やされるのは、これにまさる喜びはありません。しかしその途中経過こそが大切なのであって、一人一人が真に愛されていることが伝えられていくことが大切なのであって、逆に言うと、それが本当にできれば、洗礼は無くてはならない絶対なものではないはずです(Tコリント1:17)。洗礼は、イエスの招きによって受け、またそれをさえぎる困難がないときに受けれる、恵みの約束としてのしるしです。
 様々な事情で洗礼が受けられない、たくさんの神の民がいるでしょうし、あるいはまた、熱心な他宗教の方々も、神の愛されている人たちであるのは間違いのないことですから、他を見下げたり、とにかく何でもキリスト教徒になればいいんだ、といったような新興宗教のような考え方をすることだけは、避けてほしいと願います。
 イエスが私たちに求められたのは、そんなことではなく、この、昇天の出来事にもあるように、イエスが最も心にかけられた小さき者たち、これをお前たちに託す、ということではないかと思います。
 人が人のゆえに苦しみを与えられている、その苦しむ者たちの側に共にいて、またそれを解放するため、悪とその力に対しても敢然と立ち向かってほしい、ということが、私たちに願われたことではなかったでしょうか。
 私にはどうしても、イエスが弟子たちを《ベタニアの辺りまで連れて行き》、そこから天に昇られた、ということが、単なる場所の偶然的一致だったとは思えないのです。
 そしてまた少なくとも、イエスのこの行動は、エルサレムを場所に選ばれなかったことで、より大勢の改宗を目論んでなどいなかったことが明白であると思うのです。
 だから、例えば今の時代にあって、具体的なことを言えば、いつもいつも礼拝出席や受洗者の数ばかり気にしているのではなくて、まずは今いる自分たちの周りの人たちを本当に愛しているのか、特には、人間のゆえに苦しめられている人たちが居ないか、ということを、真剣に考えることが必要だと思います。
 さらに具体的に言えば、例えば私のいる東海地方であれば、私にとっていつも最大の心配事は、浜岡にある原子力発電所です。必ず起きると言われる東海地震の、大陸プレートの狭間にあるこの原発。好き好んでこの運転を願う住人はいない。貧富の差を強いられているから、身売りしたようなもので、その実情は日本にある50基からの原発立地点はみな同じ。仮に地震の心配のない場所でも、みな嫌なんです。これを、遠くの都会の人たちはのんびりと気にもとめず、余分な享楽にふけっている。私にはどうしても、これが我慢できません。たとえまた仮に、大事故が起きなくても、原発ジプシーと呼ばれる経済的弱者の労働者たちは、無事故の中でも被曝を続け、小中の事故処理などしょっちゅうで短命なのです。こんなものは絶対にやめなければなりません。
 ドイツでは、教会が中心となってこの学習を進め、そしてついに解体へと国をも動かしました。私たちに何でこれが無関係であり続けられるでしょうか。しかも我がJELCは責任が深いと思います。私たち自身には力が無くても、心を決めれば、あとは神さまが道を備えてくれます。いちばん苦しめられている人の身になって、声を発することこそ大切なことと思います。
 教会が、あるいはキリスト教徒としてでは、そういう社会的なことは一切関係しないものだ、と、もしも誰かが言うのなら、私はハッキリ答えます「それなら、キリスト教徒が増えれば増えるほど、世の中は悪くなります」と。
 私たちはイエスの昇天を覚えるとき、復活の命にあずかる喜びで天を仰ぐとともに、それだけではなく、天に帰るまでの間、イエスが私たちに託された、地上で苦悩し生きる者たちの命ということも、同時に真剣に祈っていくべきだと思います。それらのことを具体的に祈ることを、使命として与えられたのだと覚えることは、教会が社会に遣わされる平和の使者にもなることです。イエスは私たちの内にいて、励ましてくださいますので、共に歩んでいきましょう。


祈 り
 神さま。私たちが、やがて帰りゆく天をあおぎつつ、しっかりとこの地でも、互いに愛し、命を尊ぶという使命を果たすことができますように、私たちを導き、守り、励ましてください。イエスの御名によって、アーメン。

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