今月のメッセージ

ルーテル知多教会月報「わかちあい(第33号)」より

いい子だけでもダメ

知多教会牧師 内藤新吾


義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。

(マタイによる福音書5章10節)

 今から17年も前になろうか、暦では一応冬になる沖縄に行った。年配の人の付き添いで、自分で行くことを計画した旅ではなかったが、それだけに、まだ二十歳前後の私には、何も考えずに行け、また遊び目的でなかったことはかえってよい機会であった。今はどうなのかは知らないが、当時、バスから見える家並みが、非常に貧富の差が激しく、とても悲しくなったのを思い出す。

 そんなことを感じながらひめゆりの塔(の駐車場)にバスが着いたとき、これまた非常にショックなことが起こった。それは、私の前もっての心の準備など、思いもしない出来事であった。子ども達が、わぁーっと降りる乗客に向かって、手に手に持っている花を、買ってくれと言い寄って来たのである。私の前にも何人もが集まった。皆真剣な顔である。まだ小学校のまん中ぐらいの子達ばかり。それが、ごく普通の平日であったことが、また何重ものショックになった。はっきり言って同じこの日本にと、信じられない光景であった。何かの間違いであってくれ、あれは特別な日の事であってくれと、何度も落ち込んだ。その後、もう一度そのことを確かめに行ける機会はなかったが、どう見積もっても尋常ではない状況が、沖縄を取り巻いているということの実感が、私の肌に残った。

 あれからだいぶ経ったけれど、時代は改善しただろうか。いや、実にウンザリする、ガックリする、何の進歩もない、否むしろ改悪の決議がついこの前なされた。知花さんがついに堪え切れず叫んだシーンを、ニュースで見たとき、私も一緒に逮捕されたかったと感じた。怒りに体が震えた。こんなことが、厳かな面持ちの人たちの間で、平然となされている。絶対にゆるされるべきことではない。こんな悪事の前に、安直な「怒ってはならない」とか「ゆるしなさい」などのキリスト教用語が使用されることは、キリストも望んではおられないだろう。主もまた公生涯の時になされたように、激しく怒り、批判の言葉を発し、真っ向から闘われたことだろうことを、確信をする。

 教会では、何だか悪い伝統で、政治的発言・意志表明は避けるという風潮が強くまた長くある。しかしそれは権力を敵にまわしたくないという保身の考えから来ているもので、真に信仰的な祈りから来ているものではない。神と人を愛するならば、真に善きことのために物事を変えてゆく勇気を私たちは持つべき時がある。神の御心がなされていないとき、それに対して否ということを言うことが必要なことがある。今はそのことが、たいへん多い時代である。

 原子力をめぐる虚偽と害と差別の構造や、また貧者をさらに圧迫する国と国の間の不公平な関係など、まだまだたくさんあるが、キリスト者は、特には人が人を虐げているという悪に対して、いたぶられている者の側に共に立ち、闘うことが神から求められている課題ではないかと思う。こういう問題は私たちの周りにたくさんある。これらに対する祈りがない、ただ何も傷つかないところでだけの善行が教会で奨励されるなら、それはサロンとなり得ても、決して神からの栄誉を受けることはない。私たちは主と再会するとき、あなたはよくわたしと苦しみを共にしてくれたと、おほめをいただく者となりたいものである。

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